これまでは堅めの表現で書いていたので、練習がてらですます調で試してみたいと思います。
今回は「暇つぶし」や「時間つぶし」という言葉についてですが、これらの言葉は日常的にもよく聞くと思います。
私はこの概念が嫌い、というか今現在それらの概念自体を持っていないと言っても過言ではありません。
今回、この点についてちょっと整理がついてきたので、ここに記します。
つらつらと書き込む前に、結論から書いておくと、「暇つぶし」や「時間つぶし」といった言葉で片付けず、その貴重な自由時間を存分に使おうよ、という事です。
「暇つぶし」、「時間つぶし」の正体?
一般的に「暇つぶし」、「時間つぶし」が必要となるような状況になった時、私の場は無意識にやっていることがあります。それは、その時間がどのような時間か分類する、という事です。
●例えばこんな感じで分類しています。
A. 重要なタスクが少し先に組まれているが、そのタスクまでは時間がある
例: いつもの仕事や、外出の予定など
↓
自分でコントロールできる自由な時間と考えられる
↓
その時間でやりたいことをやる
B. コントロールできないタスクの影響で、行動を拘束された状態
例: 移動時間、何かの待ち時間など
↓
自分で時間をコントロールできず、退屈な時間と考えられる
↓
その時間を楽しんだり、活用したりする方法を考える
こんな風に考えると、「暇な時間」とひとくくりされそうな時間でも、その裏に隠された正体が見えてきます。
「自由な時間」か「退屈な時間」か分類できれば、それぞれに対応した楽しみ方を見つけることもできるようになると思います。(学生時代なんかは「退屈な時間」に分類される時間が多かった気はします)
自由な時間を恐れるのはなぜ?
私は絵や音楽を作るのが好きで、散歩やゲームなどのその他娯楽なども合わせて、いくら時間があっても足りないという感覚で生きています。おそらく何かを作る人は同じような感覚を持つ人が多いのではないでしょうか。
一方、少なくない人々の中では自由な時間を恐れる感覚があり、それが暇つぶしという概念につながっているように思います。
なぜそういったシチュエーションで自由を恐れるのかと考えれば、おそらくは持続的な楽しみが少なく、先にやった分類のうち「退屈な時間」に相当するような状態が生じやすくなってしまうからではないでしょうか。
人生の残り時間は見えにくい
これは重要な部分で、自分の人生の残り時間が見えていたら、その「暇つぶし」や「時間つぶし」をするでしょうか、ということです。
例えば、行動回数が制限されたゲームをやっている時なんかで、何も行動せずに自分のターンを終了するなんてことが日常的にあるでしょうか?
暇つぶしってのは、そうやって自分の人生のターンをスキップするようなものだと思います。しかも、その「ターン」で消費するのは自分の命です。
そう考えれば「暇つぶし」や「時間つぶし」なんてものをやってる時間は無いことに気付くのではないでしょうか。
自分が楽しいと思えれば、それは暇な時間ではない
そもそも、実は自分が「暇つぶし」や「時間つぶし」だと思っていることは、暇つぶしではなく、楽しんでいる充実した時間かもしれません。
例えば、漫画を読んだり、ドラマを見たり、持続的ではないかもしれませんが、それを自分が見たいと思って見ているものならば、それはもはや自分が選んだ充実した時間です。
私の場合、その充実のハードルが非常に低いので、その辺の景色を見ているだけでも楽しめますし、究極は、頭の中だけで今書いている文章のようなことを考えるだけでもかなり楽しいです。(それ以前に、絵と音楽だけで2人分の人生は楽しめると思います)
他人が面白いと思うかどうかを気にするから複雑になるんです。自分がハードルを決めて、楽しいと思ったことを楽しいと思えば、至る所に楽しみが転がってると思えるものです。
パーマネントデスの人生を目一杯楽しむ
私はゲームが好きなので、ゲームでの概念が多くなってしまいますが、ゲームの中には、一回死んでしまうとステータスがリセットされてしまうパーマネントデス(恒久死)というシステムがあります。
そんなゲームをプレイしている時は、ゲームであってもかなり緊張します。(いいゲームはその緊張感が面白さにもつながります)
人生ってのはそれよりも一層シビアで、死んだらリセットすらなく、チリに分解されて地球や宇宙の構成要素に戻ってしまうだけです。
だったら自分が自分をコントロールできるという人生という期間、「暇つぶし」や「時間つぶし」なんて言ってないで、目一杯その時間をコントロールしてやるのが醍醐味じゃないでしょうか。