私は仕事などで日々テキストコミュニケーションをとっているが、性に合ってるのはメールである。
リアルタイムのテキストチャットはあまり好まない。
その感覚に至るまでを考察するにあたって、いくつか面白い観点を発見できたため以下にまとめておこうと思う。
テキストコミュニケーションの大きな問題点
テキストコミュニケーションは時間や空間に縛られにくく利便性がある。その反面、表現の裏にある感情や感覚は相当に削り取られてしまう。
私はここに大きな欠点があると感じる。
手書きの手紙であれば、文字のブレなどからそれを書く者の感情を多少推測できるが、デジタルのテキストフォントを介した表現の場合は、全くもってその裏の感情が読み取れなくなる。
このトピックのタイトルにしたように、どんな人間がテキストを打ち込んだとしても、外見上はまるで弁護士のようにかっちりと体裁が整った状態になってしまうのだ。
たとえ絵文字やスラングを使用しようとも、表面上はとにかく整っていて、ある一定のクオリティは必ず保証されてしまう。
現に私自身何の権威もなく、まっとうな人間だとも思わないが、こうやってテキストフォントを介して見せると、まるできっちりとした人間かのように見せることができてしまうのである。
感情が切り取られた結果
とにかく、デジタル化されたテキスト表現だけでは相手の感情を読み取るのが難しく、余計な摩擦が生じやすい。
ネット上で度々発生する表現問題なども、この欠点に寄るところが大きいと感じる。
対面であればジョークで済んでいたようなニュアンスでも、感情がバッサリ切り落とされた中ではただの嫌味や侮辱にしか聞こえなくなるものも多い。
そこで多くの人間の感情を逆なでしてしまうのだろう。
特にリアルタイムに近づけば近づくほどその感情の読み取りは難しくなり、ほぼ不可能と言っていいほどになる。
チャットグループ上のいじめなどもその欠陥に起因する部分も多いのではないだろうか。
私がリアルタイムチャットを好まないのもその要素が大きい。
(既にICQ時代で、あのせわしなさに懲りたというのもある)
もう一方でメールが好きなのは、ある程度感情の枝葉を組み込むこともできるし、ゆっくりと考えた上で返答することができる。
その結果あまり解釈の齟齬が生まれず、総合的に見てスムーズなコミュニケーションが取れると感じるからだろう。
モダンなツールだろうが伝わらなければ意味がない
哲学の解説などを読むと、哲学の始ソクラテスは文章で教えを残すことを好んでいなかったと言う。
自らの思考を良く理解している弟子による手書きの文章ですら、生きた表現を正確には伝えられないと考えていたのだろう。
それどころか、彼は正確な対話のために一対一でのやりとりを基本としていたともあり、とにかく整った条件でなければ、達人をもってしてもまともなコミュニケーションなど成り立たないと判断していたのではないだろうか。
その概念は今回のテキストコミュニケーションについての考察をまとめる上でも腑に落ちる感覚だった。
コミュニケーションは一見体裁が整っているように見えても相手に伝わらなければ意味がない。
最新の端末を使用して、テキストやデータをひっきりなしに打ち込んでも空虚なやり取りが続くのであれば、もはやそのコミュニケーションに失敗しているのだろう。
自分が何を伝えたいのか、何を欲しているのか、そもそもその問題や欲求の解決には表面上のコミュニケーションすら必要ない可能性もある。
それを判断するには、他者とのコミュニケーション以前に、むしろ自らとのコミュニケーションが必要なのかもしれない。