私は商店街などにある気取らない中華屋、食堂が好きだ。
行列のできる店や人気店などはほぼ行かない。
インターネット上の情報は、メニューや場所を仕入れるために使うもので、評価はほとんど参考にしない。
その店に入るかどうか、最終的には第六感的なもので判断する。
端からすれば、なんと面倒な生き方をしているのかと思われるだろうが、自分自身はその選択を苦も無く自然にできている。
その原因が最近ようやく分かってきた。それを以下に乱雑にまとめたいと思う。
何が飲食店での満足度をもたらすのか
最近気づいた点として、料理は飲食店での満足度に対して大きな比重を持つものの、少なくとも私にとってはそれが絶対的な要素ではないという事である。
私にとって料理と同じくらい大切なのはその店の雰囲気、客の雰囲気である。
例えば、料理が平凡であっても、店や客の雰囲気ががっちりと噛み合っているような状況がある。その場合、自らの総合的な体験としては100%の満足度が得られている。
何がその噛み合いをもたらすのか、これは人それぞれ勘所が異なるため、数値化するのは難しいだろう。
結局のところ自分で行って体験してみないと実際のところは何もわからない、というのが真理だと思う。
そう考えると、インターネット上の情報にありがちな、料理だけで判断されたようなレビューなどは、片手落ち、もしくはそれ以上に欠落した内容であるとも言える。
何によって満足度が低下するのか
先の説明によってほぼ答えが出ているようなものだが、少なくとも、料理、店の雰囲気、客の雰囲気が悪ければ満足度は下がる。
例えば、料理が100%のおいしさだったとしても、店の空気がよどんでいたり、横柄な客がいたりすれば、店を出たときの感情としては、ネガティブな印象で終わる。
これは逆の考え方としても応用でき、何らかマイナスな部分があっていたとしても、ほかの部分の良さで最終的に100%の満足度を達成することは可能なのである。
例えば屋外でおにぎりを食べたときに感じる特殊な満足感。そのような感覚である。
特殊なネガティブ事例としては、この文章の冒頭で上げた行列のできる店の例。
これは私の中では飲食店自らがハードルを上げてしまっている例に入る。
私にとって行列に並ぶ時点でマイナス50%程度のネガティブさを発生させるため、かなりのハンデを負うことになる。まず並大抵の料理でそれを覆すことはできないし、店の雰囲気も行列で混んでいれば、急かされた空気も出て、あまり良好とは言えない。
となると、その逆境を跳ねのけるのはもはや無理なのである。
だから、私はあえて行列のできる店に行くようなことはしないのだろう。最終的に失望することが目に見えるのだから……
(人によっては行列がプラスに作用する事もあるだろう。だからその例はあくまで私の例にしかすぎない)
最後の例としてデリバリーがある、飲食店の味を味わう範疇にはなるが、店と客(これはその場にいる友人や家族で代替できる可能性はある)が欠落した状態になる。
料理的にも器の良さなどが欠落した状態にもなり、利便性を相当に優先しない限りはあまり割に合った形態だと思えない。
飲食店全体を味わう
上記の例で挙げたが、私が行列ができる店に絶対に行かないかというと、そうではない。
行列ができる店に行列が無い時に行くのである。(それを太字で書くほどの事か… とは思う)
そうすると、先に上げたネガティブなハンデなしでその店本来の良し悪しを落ち着いて味わうことができる。(大抵の場合は並ぶほどではない、という評価で終わることが多いが…)
料理、店、客、いかに味わうか。実は様々な人が無意識的にやっているが、気付いていないだけだと思う。
私がそこに気付いた時、飲食店というのは料理だけでなく、店全体で味わう総合芸術なのだと、思い知らされた。
また、この感覚は飲食店に留まらず様々な事に応用できる。
事象単体ではなく、その事象に関わる仕組みを総合的にどう感じるか。
その観点は、周りに振り回されず、自らの中に明確な判断基準を持つ助けにもなるだろう。