MangaAssault 思考の洞窟

自分勝手な思考や考察を時々掲載します。

安心したころに失敗はやってくる


以前のトピックで幸福と不幸の陰と陽の関係について書いた。

 

mangaassault.hatenablog.com

 

そこで、幸福が不幸に侵食される瞬間に何が起きているか、少し考えてみた。

 

あくまで私の場合だが、大きなスパンで考えた場合、大体10年ごとくらいに大きな変化が起きていると感じる。

そしてそういった変化があるときは、まぬけな失敗をしがちだ。

そのような失敗をしたとき、ルーチン的に回っていた生活に、不幸・不安定という感覚が侵食してくる。

 

失敗が発生する前提条件

  • ほぼルーチンで回っていた時に外部環境もしくは自分自身が原因で意図しない変化が起きる

  • 自分がルーチンに慣れすぎて行動に変化を付け出す(横着するなど)

 

前提条件の後で発生しがちな流れ

 

ルーチンから外れた行動を取った結果、やりなれない作業を行うことになる

やりなれない作業に対する経験が不足しているため、失敗する可能性が高まる

最終的に失敗する

不幸・不安定を感じる

再チャレンジする

自信を持つ

新しいルーチン的な処理を手に入れる

幸福・安定した状態に戻る

 

 

こう考えてみると、幸福・安定と思えるときは、ある程度物事をルーチン的に処理できている状態の時のようだ。

何か予測できない事態や新しい事態が発生している時は失敗しがちで、不幸・不安定な状態につながりやすい。

(不安定な状態がむしろルーチンだという人も存在するので、安定・不安定の条件というのは人によって大きく異なるとは思う)

 

 

厄年などというのも実際は超自然的な原因などではなく、人間の人生の中で一般的に突発的な状況が発生しやすいタイミング、ということなのだろう。

そこでお祓いをするような人は、それほどにトラブルに気を付けているわけなので、失敗に遭遇する可能性も低くなる。

現代的な感覚ではこうやって論理的な方向で考えられるが、統計などが発達していなかった時代であれば、そのような現象を霊的な存在に結び付けるのも自然な考えだったと思う。

 

 

考えるほどにこの幸福のシステムは、そこに身を置いている限り常に不安定を呼ぶ地獄的なシステムだと感じる。

ただ、少し救いだと思えるのは、失敗をした後で再チャレンジをする気力があれば、再び幸福・安定のループに戻ってこられる可能性があり、なおかつ失敗しただけ新しい能力を得られる可能性もあるということだ。

(逆に言えば、再チャレンジしなければ不幸・不安定なまま、ということでもあるが……)

 

 

 

散歩ってやっぱり面白いんじゃないか


私は自由な時間があるときによく散歩する。

たまたまテレビでやっていた若いサッカー選手の特集で、その選手が「散歩をしている間はサッカーの事を忘れて落ち着くし、自分と向き合えるような気分になる」と語っていた。

その感覚は私もよくわかる。

そこをもう少し分解できそうな気がするので、簡単にトピックを残しておこうと思う。

 

 

散歩で得られていると思う事

得られることは人それぞれ違うと思うが、私の場合は散歩をしている時に以下のような感覚がある。

 

  • 五感に伝わる絶え間ない変化がいい刺激になるだけでなく、それらが頭の中にある情報と結びついて整理や発想につながる

  • 歩く時間が長くなるにつれて、頭で考える状態が薄れてある意味、無・瞑想的な状況になる

  • 体の疲労と、脳の開放でだんだん心がリラックスしてくる

  • 小さな発見や、自分が想像もしない変な発見が単に楽しい

 

これだけでなく、他にも色々と感じていることはあるはずだ、それらはまた詳細に分解する際にでもまとめようと思う。

 

ただ、割とはっきりしているのは「どうも心身が疲れているな」という時に散歩をすると、散歩中は一瞬それを忘れられるし、何度か繰り返すと根本的に疲れ(ダメージ?)が取れてくるような状態になる点だ。

これは短い距離でも得られていると思うが、30分~1時間ほど続けて歩いた方が効果が強い気はする。

 

スクリーンはいつでも見られる

このところは、屋外で歩きながらスマートフォンの小さなスクリーンを凝視している人をかなりの頻度で見かけるようになった。

そもそもそれが危険だというのもあるが、散歩の楽しさを知っている人間からすると非常にもったいないと感じる。

 

デジタル端末で入手できる情報など、もはやどこにいようが手に入るし、同じ光景を見ようと思えば誰でも同じものを見られる。むしろ今はそれが売りの技術になっている。

いつでも見られるとすれば、わざわざ屋外でかじりつくような必然性はそこにない。
(もしあるとすれば麻薬性なのだろうが…)

 

そのようなコンテンツに比べて、屋外環境からあふれ出す情報の塊の真っただ中に自分が存在するその真実性、自分の五感でしか体感できないリアルタイムのその一瞬一瞬。これほどのリッチコンテンツは無いだろうと思う。

だから私は屋外で小さなスクリーンに囚われることはない。

 

ただの移動と思うのではなく、鎖に縛られない自由な気分で歩いてみる。

そんな気分で散歩するのはやっぱり面白い。

幸福という言葉を知った瞬間に不幸になる


「幸福」という言葉は日常でなにげなく使う言葉だ。

私も時々使うことはある。

ただ、長年この言葉と向き合うにあたって、だんだんと見えてきたのがこの言葉の空虚さ、あいまいさだ。

結論からすると、このあいまいな言葉に執着すればするほど不幸になると感じている。

 

 

便利であいまいすぎる言葉

幸福という言葉は非常に一般的で、深く考えずに使っていることが多いが、それが具体的にどのような状況を示すことなのかをいざ説明してみると、一人ひとり全く違う状況を示すと思う。

もしくは具体的な状況を示すことすらできない人も多いかもしれない。

それはなぜか。

実態は、世間やメディアが蜃気楼のように浮かび上がらせた、漠然とした理想のようなもので、定義できるほど意味を持った言葉では無いから、ではないだろうか。

 

似たような言葉で「青春」という言葉もある。

これもまた一部の作家やメディアが作り上げた、空洞化した偶像のようなものだと感じる。

こういった、あいまいなままコミュニケーションを成立させられる言葉は、その便利さから人々に広まるのも早い。

だが、あいまいであるがゆえにその幻の姿に心身を蝕まれて命を落とす人間もいるわけで、負の側面も非常に大きいと言える。

 

陰ありきの陽

では、幸福という概念を成り立たせようと思ったとき、前提として何が必要だろうか。

それは「幸福」が陽の状況とすれば、陰としての状況「不幸」の存在である。

不幸だと感じるから、幸福を求める。逆に言えば、不幸だと感じていなければ幸福かどうかを判断することは難しい。

であれば、「陽」の言葉に執着する限り、「陰」の言葉がいつまでも付きまとう、という事だ。

 

このところ「相対的貧困」「相対的不幸」などと言った言葉を耳にするようになったが、これも「幸福」に執着する結果、「不幸」にも執着してしまった極端な例だと感じる。

それではもはや、無間地獄に自ら足を突っ込んでいるようなものである。

 

幸福と不幸の輪廻

「幸福」の一言でごまかし続けていた自らの価値基準を掘り起こし、幸福と不幸の輪廻のような連鎖から脱却する。

それは理想的な概念だが、実際そんなことは可能なのだろうか。

はっきり言って私はブッダでもないので確立した方法はわからない。

だが、以下のように考えることで少しは近づけるかもしれない。

 

  • 「幸福になりたい」ではなく「○○が欲しい、○○をしたい」そのためには何をすればいいか、と具体的に考える。

  • 「不幸だ」とただ文句を言うのではなく「○○がうまくいっていない、○○が足りない」ではどうすればその問題を実現できるか、と具体的に考える。

  • ちょっとしたことで崩れるようなものに価値を委ねない。自分が生きている限り剥がれ落ちない価値や技を地道に重ねる。

 

おそらく死の恐怖すら克服しているような人はこの輪廻を断ち切っているだろう。

そんな状況を悟りと呼ぶんだろうか。

 

 


テキストフォント越しではみな弁護士のように整って見える


私は仕事などで日々テキストコミュニケーションをとっているが、性に合ってるのはメールである。

リアルタイムのテキストチャットはあまり好まない。

その感覚に至るまでを考察するにあたって、いくつか面白い観点を発見できたため以下にまとめておこうと思う。

 

 

テキストコミュニケーションの大きな問題点

テキストコミュニケーションは時間や空間に縛られにくく利便性がある。その反面、表現の裏にある感情や感覚は相当に削り取られてしまう。

私はここに大きな欠点があると感じる。

 

手書きの手紙であれば、文字のブレなどからそれを書く者の感情を多少推測できるが、デジタルのテキストフォントを介した表現の場合は、全くもってその裏の感情が読み取れなくなる。

このトピックのタイトルにしたように、どんな人間がテキストを打ち込んだとしても、外見上はまるで弁護士のようにかっちりと体裁が整った状態になってしまうのだ。

 

たとえ絵文字やスラングを使用しようとも、表面上はとにかく整っていて、ある一定のクオリティは必ず保証されてしまう。

現に私自身何の権威もなく、まっとうな人間だとも思わないが、こうやってテキストフォントを介して見せると、まるできっちりとした人間かのように見せることができてしまうのである。

 

感情が切り取られた結果

とにかく、デジタル化されたテキスト表現だけでは相手の感情を読み取るのが難しく、余計な摩擦が生じやすい。

ネット上で度々発生する表現問題なども、この欠点に寄るところが大きいと感じる。

 

対面であればジョークで済んでいたようなニュアンスでも、感情がバッサリ切り落とされた中ではただの嫌味や侮辱にしか聞こえなくなるものも多い。

そこで多くの人間の感情を逆なでしてしまうのだろう。

 

特にリアルタイムに近づけば近づくほどその感情の読み取りは難しくなり、ほぼ不可能と言っていいほどになる。

チャットグループ上のいじめなどもその欠陥に起因する部分も多いのではないだろうか。

私がリアルタイムチャットを好まないのもその要素が大きい。
(既にICQ時代で、あのせわしなさに懲りたというのもある)

 

もう一方でメールが好きなのは、ある程度感情の枝葉を組み込むこともできるし、ゆっくりと考えた上で返答することができる。

その結果あまり解釈の齟齬が生まれず、総合的に見てスムーズなコミュニケーションが取れると感じるからだろう。

 

モダンなツールだろうが伝わらなければ意味がない

哲学の解説などを読むと、哲学の始ソクラテスは文章で教えを残すことを好んでいなかったと言う。

自らの思考を良く理解している弟子による手書きの文章ですら、生きた表現を正確には伝えられないと考えていたのだろう。

それどころか、彼は正確な対話のために一対一でのやりとりを基本としていたともあり、とにかく整った条件でなければ、達人をもってしてもまともなコミュニケーションなど成り立たないと判断していたのではないだろうか。

 

その概念は今回のテキストコミュニケーションについての考察をまとめる上でも腑に落ちる感覚だった。

コミュニケーションは一見体裁が整っているように見えても相手に伝わらなければ意味がない。

最新の端末を使用して、テキストやデータをひっきりなしに打ち込んでも空虚なやり取りが続くのであれば、もはやそのコミュニケーションに失敗しているのだろう。

 

自分が何を伝えたいのか、何を欲しているのか、そもそもその問題や欲求の解決には表面上のコミュニケーションすら必要ない可能性もある。

それを判断するには、他者とのコミュニケーション以前に、むしろ自らとのコミュニケーションが必要なのかもしれない。

飲食店の良し悪し


私は商店街などにある気取らない中華屋、食堂が好きだ。

行列のできる店や人気店などはほぼ行かない。

インターネット上の情報は、メニューや場所を仕入れるために使うもので、評価はほとんど参考にしない。

その店に入るかどうか、最終的には第六感的なもので判断する。

 

端からすれば、なんと面倒な生き方をしているのかと思われるだろうが、自分自身はその選択を苦も無く自然にできている。

その原因が最近ようやく分かってきた。それを以下に乱雑にまとめたいと思う。

 

 

何が飲食店での満足度をもたらすのか

最近気づいた点として、料理は飲食店での満足度に対して大きな比重を持つものの、少なくとも私にとってはそれが絶対的な要素ではないという事である。

私にとって料理と同じくらい大切なのはその店の雰囲気、客の雰囲気である。

例えば、料理が平凡であっても、店や客の雰囲気ががっちりと噛み合っているような状況がある。その場合、自らの総合的な体験としては100%の満足度が得られている。

何がその噛み合いをもたらすのか、これは人それぞれ勘所が異なるため、数値化するのは難しいだろう。

結局のところ自分で行って体験してみないと実際のところは何もわからない、というのが真理だと思う。

そう考えると、インターネット上の情報にありがちな、料理だけで判断されたようなレビューなどは、片手落ち、もしくはそれ以上に欠落した内容であるとも言える。

 

何によって満足度が低下するのか

先の説明によってほぼ答えが出ているようなものだが、少なくとも、料理、店の雰囲気、客の雰囲気が悪ければ満足度は下がる。

例えば、料理が100%のおいしさだったとしても、店の空気がよどんでいたり、横柄な客がいたりすれば、店を出たときの感情としては、ネガティブな印象で終わる。

これは逆の考え方としても応用でき、何らかマイナスな部分があっていたとしても、ほかの部分の良さで最終的に100%の満足度を達成することは可能なのである。

例えば屋外でおにぎりを食べたときに感じる特殊な満足感。そのような感覚である。

 

特殊なネガティブ事例としては、この文章の冒頭で上げた行列のできる店の例。

これは私の中では飲食店自らがハードルを上げてしまっている例に入る。

私にとって行列に並ぶ時点でマイナス50%程度のネガティブさを発生させるため、かなりのハンデを負うことになる。まず並大抵の料理でそれを覆すことはできないし、店の雰囲気も行列で混んでいれば、急かされた空気も出て、あまり良好とは言えない。

となると、その逆境を跳ねのけるのはもはや無理なのである。

だから、私はあえて行列のできる店に行くようなことはしないのだろう。最終的に失望することが目に見えるのだから……

(人によっては行列がプラスに作用する事もあるだろう。だからその例はあくまで私の例にしかすぎない)

 

最後の例としてデリバリーがある、飲食店の味を味わう範疇にはなるが、店と客(これはその場にいる友人や家族で代替できる可能性はある)が欠落した状態になる。

料理的にも器の良さなどが欠落した状態にもなり、利便性を相当に優先しない限りはあまり割に合った形態だと思えない。

 

飲食店全体を味わう

上記の例で挙げたが、私が行列ができる店に絶対に行かないかというと、そうではない。

行列ができる店に行列が無い時に行くのである。(それを太字で書くほどの事か… とは思う)

そうすると、先に上げたネガティブなハンデなしでその店本来の良し悪しを落ち着いて味わうことができる。(大抵の場合は並ぶほどではない、という評価で終わることが多いが…)

 

料理、店、客、いかに味わうか。実は様々な人が無意識的にやっているが、気付いていないだけだと思う。

私がそこに気付いた時、飲食店というのは料理だけでなく、店全体で味わう総合芸術なのだと、思い知らされた。

 

また、この感覚は飲食店に留まらず様々な事に応用できる。

事象単体ではなく、その事象に関わる仕組みを総合的にどう感じるか。

その観点は、周りに振り回されず、自らの中に明確な判断基準を持つ助けにもなるだろう。

 

 

 

テキストを使用した表現

私は時折絵を描いてはネットにアップロードしているが、このところ絵として表現するには難しい、日常や思考からの考察のようなものが湧き出すことがあり、それが脳に収まりきらない状態になってきた。

これまでの人生をよくよく思い返すと、自分の自由意思の上で文章を作り出すのは苦ではなく、絵と近いくらいの楽しさを覚えていたように思える。

そこで、絵を描く以外にも、テキストという形態で自らの放言を刻んでおこうと思う。

 

ここでの文章はあくまで自分勝手な考察の塊であり、交流などの目的で書き込むわけではない。誰が見るとも知れない掲示板に、うめきのようなものを綴る、そのような気持ちで向き合おうと思っている。