「幸福」という言葉は日常でなにげなく使う言葉だ。
私も時々使うことはある。
ただ、長年この言葉と向き合うにあたって、だんだんと見えてきたのがこの言葉の空虚さ、あいまいさだ。
結論からすると、このあいまいな言葉に執着すればするほど不幸になると感じている。
便利であいまいすぎる言葉
幸福という言葉は非常に一般的で、深く考えずに使っていることが多いが、それが具体的にどのような状況を示すことなのかをいざ説明してみると、一人ひとり全く違う状況を示すと思う。
もしくは具体的な状況を示すことすらできない人も多いかもしれない。
それはなぜか。
実態は、世間やメディアが蜃気楼のように浮かび上がらせた、漠然とした理想のようなもので、定義できるほど意味を持った言葉では無いから、ではないだろうか。
似たような言葉で「青春」という言葉もある。
これもまた一部の作家やメディアが作り上げた、空洞化した偶像のようなものだと感じる。
こういった、あいまいなままコミュニケーションを成立させられる言葉は、その便利さから人々に広まるのも早い。
だが、あいまいであるがゆえにその幻の姿に心身を蝕まれて命を落とす人間もいるわけで、負の側面も非常に大きいと言える。
陰ありきの陽
では、幸福という概念を成り立たせようと思ったとき、前提として何が必要だろうか。
それは「幸福」が陽の状況とすれば、陰としての状況「不幸」の存在である。
不幸だと感じるから、幸福を求める。逆に言えば、不幸だと感じていなければ幸福かどうかを判断することは難しい。
であれば、「陽」の言葉に執着する限り、「陰」の言葉がいつまでも付きまとう、という事だ。
このところ「相対的貧困」「相対的不幸」などと言った言葉を耳にするようになったが、これも「幸福」に執着する結果、「不幸」にも執着してしまった極端な例だと感じる。
それではもはや、無間地獄に自ら足を突っ込んでいるようなものである。
幸福と不幸の輪廻
「幸福」の一言でごまかし続けていた自らの価値基準を掘り起こし、幸福と不幸の輪廻のような連鎖から脱却する。
それは理想的な概念だが、実際そんなことは可能なのだろうか。
はっきり言って私はブッダでもないので確立した方法はわからない。
だが、以下のように考えることで少しは近づけるかもしれない。
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「幸福になりたい」ではなく「○○が欲しい、○○をしたい」そのためには何をすればいいか、と具体的に考える。
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「不幸だ」とただ文句を言うのではなく「○○がうまくいっていない、○○が足りない」ではどうすればその問題を実現できるか、と具体的に考える。
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ちょっとしたことで崩れるようなものに価値を委ねない。自分が生きている限り剥がれ落ちない価値や技を地道に重ねる。
おそらく死の恐怖すら克服しているような人はこの輪廻を断ち切っているだろう。
そんな状況を悟りと呼ぶんだろうか。